ひきこもり仏となり。

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アルコール依存症を乗り越えて

初めまして私は昭和49年生まれの●●●と申します。

19歳の時に鬱病を発生し24歳ぐらいの時にアルコール依存症発症し大量飲酒の毎日が始まりました。 そんな時にライフアートと山田さんとの出会いがありました。

今から振り返ると当時の心は十代、特に思春期に吐き出す事ができなかった怒りの感情でパンパンの状態だったように思います。

そんな私に山田さんは今は酒を飲んで溜め込んだ怒りを出す時に温かい言葉をかけてくれたなとありがたく思います。他のメンバーさんも温かい目で見てくれていたように思います。

当時父親と母親と3人で暮らしていました。ひきこもり状態の人がいる家族、家庭でよくあることかもしれませんが父親との関係が悪化していき、さらに酒に逃げるようになっていきました。

とても働ける状態でない時に求人広告を持ってきて「働け、働け」と言われれるのは本当に地獄の苦しみでした。ますます怒りを溜め込んでいったようです。

そんな状態が数年続き、ある時私は父を殴り倒し家を飛び出しました。

当時通っていたクリニックの先生に紹介してもらい精神科の病院にすることになりました。

不安と恐怖の中で入院生活がスタートしました。病室のカベを殴ったり、大声を出したりして自分の気持ちや感情をだしていたのかもしれません。入院中も外出時間にリカーマウンテンに缶ビールを買いに行きガブ飲みをしています。

そんな入退院を数回繰り返し29歳の時に病院の作業療法にかえだしたのきっかけに初めての断酒に成功しました。それから数年後に依存症の治療過程でよくある再発をしました。

毎日酒浸りの日々は本当に苦しかったです。

今から振り返ると当時の心は十代、特に思春期に吐き出す事ができなかった怒りの感情でパンパンの状態だったように思います。

そんな私に山田さんは今は酒を飲んで溜め込んだ怒りを出す時に温かい言葉をかけてくれたなとありがたく思います。他のメンバーさんも温かい目で見てくれていたように思います。

毎日酒浸りの日々は本当に苦しかったです。

34歳の時に2度目の断酒に踏み切りました。努力のかいがあってスッパリやめることができました。

あれから10年以上飲酒していません。断酒してからウオーキングやランニングをする習慣が身に付きました。

今では断酒できたことが人生で一番幸せなでき事になってます。

そして、20年ぶりにライフアート行き、山田さんと再会しました。

山田さんとの話し合いのなかで「ひきこもりは人生とおしてのテーマだ」ときづかされました。ひきこもりを克服しようと頑張れば単純に上手く人生が送れると思っていた自分がいました。

 

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私は着せ替え人形でした。

 私は、夜遅く暗い農道を歩きました。

                              

3月の初旬だった。三条神宮道の近くにある居場所ライフアートの路地の入口で二人の女性にあった。「山田さん、覚えていますか。私ですよ」と声をかけられた。見覚えのある顔だった。「私20年前にライフアートに来ていたんです」と。それを聞いてやっと彼女の名前を思い出すことができた。「いくつになったかな」とたずねると、くったくのない表情で「39歳なったよ」と言ってくれたことで、20年前に彼女が始めてライフアートに来た時を鮮明に思い出した。 

 20年前の秋、夜10時ごろ警察署から「一人の女性を保護しています」と「今夜は右京区の叔母さんに迎えに来てもらって、明日以降にライフアートに行ってもらいます。」と係員の人から説明があった。その数日後彼女が叔母さんに連れられてやって来ました。彼女は戸籍上の本名を名乗らず、叔母さんの姓名を名乗っていた。下の名前も自分で作った「好美」を使った。とにかく親がつけた名前が嫌だったようだ。

 

 ある日私は「好美ちゃんはどんな気持ちで家を出てのかな?」と何気なく尋ねてみました。彼女の話から分かったことは、夜9時過ぎに家を出てようだった。彼女が住んでいた場所はご両親が住んでいた母屋から離れた小屋に住んでいたようである。京都の北部、園部市の近郊が彼女の育った場所だった。駅に向かう暗い農道を歩いてとき、数台の消防車が家の方に向かっているのを見て、怖くなって警察署にそのまま行ったのでした。自分が小屋に火をつけたことを正直に話したのでした。<ぼや>ですんだことと彼女が未成年であったことが幸いしたのか事件にならずに処理されたことがわかりました。

 私は何故小屋に火をつけようと思ったのか思い切って聞いてみたとき、彼女は即座に「見られたくないものがあった」と教えてくれた。それ以上のことは何も語ってくれなかったけれど語らなくても彼女の気持ちが理解できたのでした。

彼女はよく過呼吸をおこして体を硬直させることがあった。口元にビニール袋をつけてはあーはあーと苦しそうに息をはいていた。ある日落ち着いた後、「何で急に苦しくなったの?」と聞いたことがありました。彼女がぽつりと「誰かが私の両親の名前を言っていた」と。私は冷静に考えて気がついたことはメンバーの中に彼女の両親と同姓の人がいるのか、それと訪問してくれた人が、偶然彼女の両親と同姓だった可能性があったのです。どちらにせよ彼女は両親の苗字が耳に入るだけで、体が反応して過呼吸を起こしていたのです。体が反応するという壮絶な体験ははじめてでした。

 彼女は時あることに 私に「名前を変えたい」と強く訴えるようになりました。居場所ライフアートに来てから3か月たち彼女の顔にも笑顔が見えるようになりました。しかし、私たちを悩ませたことは彼女がポツリと漏らす「名前をかえたい」という訴えでした。実家のご両親に本人の気持ちを伝えるとただ電話口でなくばかりでした。何が彼女を苦しめているのか、ひたすら彼女の気持ちを聴くだけでした。私は親の<着せ替え人形だった>という言葉が今でも印象的でした。

 一年経ちました。私たちが出した結論は彼女が家庭裁判所に出向き正式に名前を変える手続きをとることでした。彼女は20歳になっていました。様々な困難もありましたが、私は手続きの書類の保証人の欄に署名捺印をしました。正式名の苗字は叔母の姓にて、自分が作った「好美」を下の名前にしたのでした。

30分程の時間の再会でしたが、別れ際彼女は「山田さん、こんな年まで生きているなんて夢みたいで、考えられなかった」と。ライフアートから去っていった友人のなかで自ら命を絶った人の二,三人の名前を教えてくれた。そして、ライフアートで知り合って今でも会って遊んでいる友人の名前も嬉しそう教えてくれた。

 平安神宮の鳥居が見える路で私は「また来てね」と言いながら手を振りました。 彼女の姿が見えなくなってから私は考えました。20年間一人で苦悩を背負い続けていたのだろうか。それとも心の葛藤は解決したのだろうか。私には分からなかった。彼女の人生の20年間中で自ら命を落とさなかったことは私には小さな奇跡に思えた.

    一人で苦悩と向き合いそして苦悩を見つめていて、あの屈託のない笑いは何なのだろうかと思った。ひよっとしたら光が差し込むように観音様が彼女の心に入ったのかもしれない、いやきっとそうに違いない。 そうでなければあんな慈愛に満ちた微笑みはないなと思ったのです。

彼女の小さく消えゆく後ろ姿は着せ替え人形というよりは観音様の化身となっていた。

 

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「親の死体と生きる若者たち」を読んでー 中桐康介

『親の「死体」と生きる若者たち』を読んで

 

山田孝明さんの『親の「死体」と生きる若者たち』を読みました。山田さんは長年、ひきこもりの人たちの支援活動に取り組んでおられます。今から7~8年前、ぼくが若者の就労支援として若者の居場所の運営の仕事をしていたころ、お世話になったことがあります。名古屋オレンジの会のシンポジウムにお招きいただいたこともありますし、NPO長居公園元気ネットで開催したシンポジウムにパネラーとして参加していただいたこともありました。それ以来、久しぶりの「再会」です。

『親の「死体」と生きる若者たち』については 同書では高齢の親と同居する40代、50代のひきこもりの問題、「8050問題」に焦点が当てられています。折りしも、川崎市のカリタス小事件や元農水省事務次官による事件があり、社会的にも強く関心を引いていました。ぼくは野宿者の問題にずっと取り組んでいますが、ぼくにとってもひきこもりの問題は「他所事ではない」と思っています。2000年ごろ、ぼくが長居公園での野宿者運動に取り組みはじめたころは、野宿者のなかに20代、30代の若い世代が目立っており、ぼくの関心は自然と若者の就労問題に広がっていきました。その後、縁があって就労支援の仕事をすることになり、いわゆる「ニート」状態の若者に支援に取り組みました。「ニート」状態の若者の中にはひきこもり経験者も少なくなかったですし、現にひきこもり状態にある若者の親からの相談も受けていました。ひきこもりと向き合って、どう寄り添って生きていったらいいのかを考えることは、当時のぼくにとって不可避のことでした。その後、オシテルヤの専従となって訪問介護の仕事を専門にするようになってからは、仕事としては高齢者や障害者に焦点をあてることになりましたので、若者やひきこもりとのかかわりは間接的なものになっていきました。表面上はそのようにぼくが直接にかかわる「対象」は変遷しているのですが、実はずっと「同じことに取り組んでいる」と思っています。ひきこもりに引き寄せて話してみると、野宿している人の中には他人と接することに強烈な不安感を持ち、社会に出て行くことを避けているように見える人もいます。アルミ缶集めなどの仕事をしている人もいれば、収入のない人もいます。精神的な疾患や発達障害が背景にある場合も少なくありません。地域や行政は彼らに「自立」してほしい、あるいは健康な生活を送ってほしいと願ったり期待したりして、主として野宿からの脱却を目的にした「支援」をしようとします。しばしば道路や公園などの管理目的で、お仕着せの「支援」となり、当事者の反発も招きます。ぼくらはただ、彼らを地域の隣人として受け入れ、寄り添いいっしょに生きていける世の中になったらいいと願い、夜回りなどの活動をしています。野宿の人とのかかわりとひきこもりの人とのかかわりが「とてもよく似ている」ことに気づかれると思います。

近年、野宿者は大きく数を減らしました。その大部分は生活保護の運用の改善によるものだと考えられます。一方で、生活保護利用者の孤立も問題として多く語られるようになりました。ぼくらが携わって生活保護を利用して、野宿状態から脱してアパート暮らしを始めた人の中に、様々な理由でひきこもり状態になっている人が少なくありません。その中にはヘルパーなどの福祉制度を利用している人もいますが、そうでもなければなかなか付き合いを続けていくことは簡単じゃありません。それでも不定期に訪問をしたり、年賀状を届けるなどして、か細い付き合いをなんとか続けていこうとしている、といったところが現状です。

若者の就労支援に取り組んで以来、カウンセリング技術を習得したりやキャリアの理論を学んだり(ぼくはキャリア・コンサルタントの国家資格を持っています)、発達障害について専門研修を受けたりしてきました。就労困難や生活困窮状態にある人の中には、精神疾患や発達障害を抱えた人(未診断、医療拒否の人も少なくありません)、非行や犯罪などの逸脱キャリアのある人、複雑な家族関係・経済関係の人などがいます。複数の課題を同時に抱えていることも珍しくありません。そうした人に適切な支援を提供し、なおかついっしょに仕事をする職員やメンバーに過剰な負担をかけないように持続的に支援に取り組んでいくためには、専門的な知識を身につけ、ノウハウを学ぶことは不可欠だと考えています。

しかし学べば学ぶほど、対象者とのかかわりが方法論に偏ってしまうようなところがあり、注意が必要だと常々思っています。アセスメントを徹底しようとすればするほど、カール・ロジャーズの来談者中心療法で言うような「無条件の肯定的態度」から離れていってしまうようなことを感じるのです。そんなとき、夜回りに出て野宿の人と接し、そのありのままを受け入れようとする自分を再確認して、出発点に引き戻ったような気がしてほっとするのです。

山田さんの本を読んで、ひきこもりの人たちのありのままに寄り添う山田さんの姿勢に触れて、そんなことを思いました。

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長居公園元気ネットでは山田孝明さんの講演会を準備しようとしています。またコチラでもお知らせします。

 

 

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二人の変死体。

東京の大手の新聞記者から電話をもらった。8050問題を背景にある「二人の変死体」を調べていると。私の著書・親の死体と生きる若者たちを読まれたようで、「もう、手遅れだ」という記述が印象的だっと教えてくれた。事件性がなければ警察発表はないだろう。今年の4月ごろ京都市の桂(西京区)でメンバーさんからの連絡で80代の母親と50代の息子さんが亡くなられていたと。発見されたのは死後10日後だろうとおもわれる。もしそうならば屋根の下であっても「野たれ死」に等しいかもしれない。私たちが気がつかないだけで、いたるところで草木が朽ち果てるように亡くなっている人がいるだろう。背景には自立を目指した子供と自立させられなかった親たちの壮絶なひきこもりの苦悩を感じられる。8050問題を貧困問題という人は いわゆる上からの目線で、貧困問題の施策では解決できないだろ。だから私は「もう、手遅れだ」と書いたのだ。

 

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記録して記憶することの一考察。 山田孝明

8月25日京都のライフアートに関西、西日本の関係者が集まり市民の会エスポワールの法人化に向けての総会が開かれた。私にとっても活動に対する色々な考えが整理できた時間ともなった。

高齢化した家族とひきこもりの若者たちへの支援の課題は私たち民間団体としてもとてもむつかしいところがあると考えている。行政機関の方がこの問題に取り組めば支援が速やかに行くかもしれないと。それでも私が8050問題に関わり続けているのは何故かと自らに問いかけてみた。それはこの問題に対して「記録して」「記憶」したいという思いがあるためです。関西、西日本を中心に家族たちの苦しみの声に接して、私自身の無力感と

絶望感を持つ。しかし私のできることは彼らの声を記録して記憶することはできる。戦争末期、特攻兵として戦地に向かう若者たちの家族に宛てた手紙や手記が残されている。記録から後世の人がこの時代がどんな時代であったか考察する手がかりとなるのだ。私はすこしでも多くの方の手紙や手記や見たこと感じたことを残したいとおもっている。屋根はついているが野ざらしのように命を尽き果てた人々の記録と記憶は最も大切だ。何百とも記録したい。私たちが生きた時代がどんな時代だったか後世の人が検証できるように何百という記録を集めたい。

今、私にできることはと問われれば、「記録して」「記憶」することだと答えたい

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高知若者を元気にする会にて

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福岡 久留米市 町田君の体験発表

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せめて老いた親と子が

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5月11日 毎日新聞大阪版にて

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