いつも自分のあり方が問われている

いつも自分のあり方が問われている

ジャーナリストとして8050問題を取材する。

今回の投稿イニシャルを希望   A.Kさん

3年ほど前から、記者としてひきこもりの人のことを取材している。きっかけは、ひきこもりの人がいる家族で起きた事件だった。親御さんが、子どもの将来を悲観して、ひきこもっていた子どもに手をかけたり、心中をはかったりしていた。家庭内暴力があったケースもあった。他者とのつながりを欠く時期が長くなり、本人も家族も孤立し、疲弊しきっていた。そんな話をご本人や家族から聞いていると、ただただ無力感を覚えた。

誰かがひきこもるきっかけや経緯はもちろん様々だ。それぞれの人生のストーリーがある。学校でのいじめ、リストラ、障害や疾患を抱えた方のこともあるけれど、外から見たら決してわかりやすくはないようなことが重なって、ということもある。長くひきこもった結果、精神疾患をともなうようになった人もいた。いずれにしても、今の社会や地域や家族に息苦しさを感じて、自分の安全を守るためにひきこもっている、ように私には見えた。それは今の社会がどんなに生きづらく、窮屈なものであるかを警告、体現しているかのようだった。

もちろん、元気にひきこもりライフを楽しんでいる方がいるなら、それはそれでいいのだけど、多くの人はそうではないから心配なのだ。問題なのは、働けない人が増えるからとか、いつまでも親元にいるからとかではなく、生きるエネルギーを失ったり、消えたいとまで思いつめてしまったり、そういう人がたくさんいることなのだと思う。

 

取材自体、いろいろと苦しい気持ちになることが多い。ご本人でも、家族でも、話しにくかったはずのことを聞かせてもらうと、「本当にごめんなさい」という気持ちになる。時には「ひきこもったこともないくせにと思われているかもしれない」なんて思いながら、おそるおそる取材をしている。

長年、同居する家族とさえ口を聞いていないという方のことに思いをはせるとき、ただただその苦しさが自分の中に流れ込んでくる。人は群れの中で生きつつ、そういった群れの中にいる意味とは離れて個として生きていると思う。けれど、ひきこもるというのは、群れに圧迫されまいと強く強く壁をつくっているのに、個としての自分の境界が曖昧になっていくような、そんな気がする。

 

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