私は、夜遅く暗い農道を歩きました。
3月の初旬だった。三条神宮道の近くにある居場所ライフアートの路地の入口で二人の女性にあった。「山田さん、覚えていますか。私ですよ」と声をかけられた。見覚えのある顔だった。「私20年前にライフアートに来ていたんです」と。それを聞いてやっと彼女の名前を思い出すことができた。「いくつになったかな」とたずねると、くったくのない表情で「39歳なったよ」と言ってくれたことで、20年前に彼女が始めてライフアートに来た時を鮮明に思い出した。
20年前の秋、夜10時ごろ警察署から「一人の女性を保護しています」と「今夜は右京区の叔母さんに迎えに来てもらって、明日以降にライフアートに行ってもらいます。」と係員の人から説明があった。その数日後彼女が叔母さんに連れられてやって来ました。彼女は戸籍上の本名を名乗らず、叔母さんの姓名を名乗っていた。下の名前も自分で作った「好美」を使った。とにかく親がつけた名前が嫌だったようだ。
ある日私は「好美ちゃんはどんな気持ちで家を出てのかな?」と何気なく尋ねてみました。彼女の話から分かったことは、夜9時過ぎに家を出てようだった。彼女が住んでいた場所はご両親が住んでいた母屋から離れた小屋に住んでいたようである。京都の北部、園部市の近郊が彼女の育った場所だった。駅に向かう暗い農道を歩いてとき、数台の消防車が家の方に向かっているのを見て、怖くなって警察署にそのまま行ったのでした。自分が小屋に火をつけたことを正直に話したのでした。<ぼや>ですんだことと彼女が未成年であったことが幸いしたのか事件にならずに処理されたことがわかりました。
私は何故小屋に火をつけようと思ったのか思い切って聞いてみたとき、彼女は即座に「見られたくないものがあった」と教えてくれた。それ以上のことは何も語ってくれなかったけれど語らなくても彼女の気持ちが理解できたのでした。
彼女はよく過呼吸をおこして体を硬直させることがあった。口元にビニール袋をつけてはあーはあーと苦しそうに息をはいていた。ある日落ち着いた後、「何で急に苦しくなったの?」と聞いたことがありました。彼女がぽつりと「誰かが私の両親の名前を言っていた」と。私は冷静に考えて気がついたことはメンバーの中に彼女の両親と同姓の人がいるのか、それと訪問してくれた人が、偶然彼女の両親と同姓だった可能性があったのです。どちらにせよ彼女は両親の苗字が耳に入るだけで、体が反応して過呼吸を起こしていたのです。体が反応するという壮絶な体験ははじめてでした。
彼女は時あることに 私に「名前を変えたい」と強く訴えるようになりました。居場所ライフアートに来てから3か月たち彼女の顔にも笑顔が見えるようになりました。しかし、私たちを悩ませたことは彼女がポツリと漏らす「名前をかえたい」という訴えでした。実家のご両親に本人の気持ちを伝えるとただ電話口でなくばかりでした。何が彼女を苦しめているのか、ひたすら彼女の気持ちを聴くだけでした。私は親の<着せ替え人形だった>という言葉が今でも印象的でした。
一年経ちました。私たちが出した結論は彼女が家庭裁判所に出向き正式に名前を変える手続きをとることでした。彼女は20歳になっていました。様々な困難もありましたが、私は手続きの書類の保証人の欄に署名捺印をしました。正式名の苗字は叔母の姓にて、自分が作った「好美」を下の名前にしたのでした。
30分程の時間の再会でしたが、別れ際彼女は「山田さん、こんな年まで生きているなんて夢みたいで、考えられなかった」と。ライフアートから去っていった友人のなかで自ら命を絶った人の二,三人の名前を教えてくれた。そして、ライフアートで知り合って今でも会って遊んでいる友人の名前も嬉しそう教えてくれた。
平安神宮の鳥居が見える路で私は「また来てね」と言いながら手を振りました。 彼女の姿が見えなくなってから私は考えました。20年間一人で苦悩を背負い続けていたのだろうか。それとも心の葛藤は解決したのだろうか。私には分からなかった。彼女の人生の20年間中で自ら命を落とさなかったことは私には小さな奇跡に思えた.
一人で苦悩と向き合いそして苦悩を見つめていて、あの屈託のない笑いは何なのだろうかと思った。ひよっとしたら光が差し込むように観音様が彼女の心に入ったのかもしれない、いやきっとそうに違いない。 そうでなければあんな慈愛に満ちた微笑みはないなと思ったのです。
彼女の小さく消えゆく後ろ姿は着せ替え人形というよりは観音様の化身となっていた。