40代50代60代のひきこもりの子を持つ家族を支援する市民の会をつくろう

高齢化した引きこもりの子どもを持つ家族が安心して悩みを語れる家族会をつくろう。介護福祉関係者にも呼びかけたい。ひとつでも支援のモデルを作って全国に発信したい。

4月30日(日)大谷ホール(しんらん会館)E会議室

呼びかけ人 五十川純一 山田孝明   安田京子  藤澤美香   高橋真理子   町田弘樹

協賛  京都オレンジ家族の会

お問い合わせ先: 075-751-7276

 

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我がひきこもり体験 —–近藤まゆ

片田舎の年子の姉弟の上に生まれ、両親は不仲。人付き合いがうまく出来ず、友達がつくれない。声が小さいのでいつも先生には名指しで怒られた。完璧主義の先生には悩みの種であった。

親からケアされていない子どもは汚い。歯は夜だけ磨くものだと思っていた。教えられなかったので知らなかった。長い髪の毛もくくっていなかった。先生を「切るかくくるかどっちかだ!」といつも同じ台詞で怒らせてしまった暗い印象では友達もできないし、社会ではやっていけないから叱りつけた気持ちだったんだろう。しかしわたしは分かっておらず、何度注意されても直せなかった。先生も呆れていた。「そのうち誰にも相手にされなくなる」と学校から帰ると、アニメを見ながらダラダラと勉強していた。夕方の7時、両親はヘトヘトになるまで働いていた。休み時間はいつも独りで過ごしていた。それが苦痛を感じるようになったのは高学年に入ってからのこと。独りぼっちを恥じるようになった。図書室で読みもしない本を読んでいるフリをしていたが、それも退屈過ぎて嫌になった。

普通ならうれしいはずの休み時間は、時間をつぶすための苦痛の時間になった。「独りぼっち」を見られるのが恥ずかしくてトイレにこもろうとしたが、それもトイレを利用する人に迷惑をかける気がしたのでやめた。生きてる心地がしなかった。

13歳の時に幻聴、ひきこもり。我慢と努力を重ねて通い続けた果ての、不登校であった。父親からは怠け病扱いされてしまった。もっと早くに怠けられれば、精神病にならなかったろう。引きこもりにならずに済んだろう。憎しみしか残らなかった。

お勉強だけが取り柄で、それも中学に入った途端に挫折をして、あれだけしんどい思いをしたのに何も残らなかった。なにもかも結果がすべてであった。同級生たちが教科書を読んでいる中、わたしは2ちゃんねるを見て育っていった。一日中、朝から晩までネット三昧、2ちゃん三昧であった。まったくもって嫌な子どもである。そういう生活が3年ほど続いただろうか。

それも、制服を見るだけで吐き気を催すほどの現実拒否反応があったため、言い訳のようだが、ネット依存というのも苦痛を和らげるための自然現象であった。

こんな形でしか、苦痛から逃避する術を、知らなかったネットをし過ぎると眼が痛くなるので、レンタルビデオ店でビデオを借りて見ていたり、本を読んだりしたが、それが終わるとやはりネットに浸ってしまう。そのうち眼が焼けるように痛くなった。死ぬほど外出したくなかったが、この時ばかりは死ぬかもしれないと思うほどの熱に魘されたので、眼科に行ったらば、感染病だと云われた。目薬をうてば熱は治まった。眼の傷みは治らなかった。あとは、漫画を読んで、ひたすら絵を描くことに熱中した。とてもお気に入りのエピソードやキャラクターがおり、考察にふけっていた。

フリースクールの先生とうまく行かず、うまいように言われてたらい回しにされ、某女子大のカウンセリングルームに通った。

「死にたい」とほざけば「思うだけならいいんじゃないかな」と平和そうな院生に言われてしまった。きみに一体なにがわかるというのだ。

いや、たった16歳の青二才が死を語るなど100年早かった。私がわるいのだ。しかし、当時のわたしは傷ついた。生きていてもカーテンも閉めたまんまの自室にこもっているだけである。誰とも話さない環境のなかで、藁をもすがる思いで、そうした縁にしがみつくしか能がなかった。

「なんの意味があるんだろう」と思い続けるカウンセリングに2年半くらい通った。思春期の貴重な歳月を懸けてしまった。親子でカウンセリング3000円と往復1万の交通費は、すべて親の負担であった。

どうにもならない流れのなかで、意味も分からずにひきこもりになり、まるで出口が見えなかった。いつまで続くんだろううと思った。1年目で老けた、おばさんになった、と思った。2年目で完全にばあさんだと思った。3年目で死にたくなった。4年目で頭がフェードアウトした。時の重みを考えることもできなくなっていた。

親を担当しているカウンセラーが「病院に行ったほうがいい」というので、わたしは内心安堵していた。病気だったんだ。どうりでシンドイ。誰にも責められることもないんだ、と。

これが最終章の幕開けになると知る由も無かった。地元で一番大きな国立病院に通った。家族歴、現在の生活から処方箋をもらった。

理系っぽい医師から「思春期のうちは誰でも精神不安定になりやすい。誰でも妄想をもったり、幻聴を聴くこともある。病名はつけられない。症状を抑える薬だけ、ということになる」という説明を受けた。

何度か通った。「調子ハドオデスカ」「夜ハ寝レテマスカ」「ジャア、オ薬ダシトキマスネ」といったような具合であった。早く学校に行けるようにならないと話にならないのだけど。薬が全然効かなかった。医者は量や種類を代えていろいろ試してくれた。試しに出してみようというような医者の軽そうなノリが見え透いていた。患者は医者の実験台なのだろうかと思った。わたしは真面目に治しに来ているんだけど。「お薬どうですか。効いたような感じはありますか。」わたしは首を振った。「ありません。」「量が少ないと効かない可能性がある。いや、実は効いてるんだけどね、わからないことがある・・・どうですか。増やしてみますか」「増やしてください」「ん?ほんとうに大丈夫なの?」なんで問い返すんだろう。「はい」疑問に気づかないフリをして頷いた。量が増えるごとに副作用が増えていった。忘れもしないセロクエル。食欲の異常、喉の渇き、フラッシュバック。どんどん頭が混乱していって、自分でコントロールできなくなってしまった。そろそろ入院しなければならない。親を殺してしまうかもしれない。

次の日、早速入院を希望して、すぐに決定した。閉鎖病棟であった。

家での状態を母が医者に伝えていたらしく「統合失調症がつよく疑われる」などと言われたらしい。対人恐怖症が入院するなんてことは、自殺行為に等しかった。入院生活とはすなわち、集団生活であり、人にまみれるということであった。

わたしはお昼の時間になるたびに、腹を括り、覚悟を決めて、悠然と食堂に向かう。恐ろしい日々であった。

セロクエルで食欲が異常であったので、毎日ひもじい思いがした。目の前でご飯を残すやつが居たならば、なんでそんなもったいないことすんねん、と食ってかかりそうになったが、よしておいた。さらに入院生活で薬の種類が増えていた。薬で頭がやられていたし、全身がだるかったので、薬を飲むことすら忘れて部屋で寝込んでいたら、看護師に文句言われた。そりゃ、何度注意されてもわからないわたしがわるいのであろう。

挙げ句の果てには、6人部屋の狭いスペースの整理ができてないというので、「今後、あなたの行動を観察します」というような張り紙が出されて、意味もわからなかった。看護師に「寝てばかりいないで、広間に出なさい」と、説教されてしまった。わたしが怠けているというのか。悔しくて泣くしかなかった。

舌や足が勝手に動いたりするのも副作用であった。気分転換に外に散歩にでることも許されなかった。窓は開けられなかった。病院にはたくさんの患者さんがいた。いい人そうなのに何年も入退院を繰り返している人なんぞざらにいた。こんな生活を何年もされていると思うとゾッとした。17歳の私ごときはひよっこであった。薬のどれを試しても副作用だけがでてシンドクなる一方であった。ちょっと強めの薬を出された。この時、はっきりと嫌な予感がした。それはダメだという直感であった。

3週間の予定が3ヶ月にさしかかっていた。もう一生出してもらえないと思った。

「セロクエルに戻してください」「どうして?」「それが一番よかったから・・・」「え? なんか理由あるの?・・・」

とにかく副作用の少なかった一番最初の薬に戻してもらい、「楽になった」と嘘を言い、出してもらうことに成功した。入院生活は4ヶ月になっていたわたしはどうしてか、副作用ばかりが出たのだ。薬を飲むことに疑問を感じるようになった。

本を読めば、精神医療の実態、誤診の可能性、薬の危険性・・・数年、精神医療にかかった者の実感として、理解できた・だまされていた。いいや、利用していたようで、されていたんだ。

心身の不調を、病気のせいにすれば、誰にも責められない。箔がつく。病者として理解されれば、わたしの存在は否定されない・・・。そこに魔が差した。こんな縁が生じたのも、すべてわたしの弱さのためだった。少しずつ薬を減らしていった。生まれて初めて真面目に運動をした。徹底して、走り続けた。なにもかも、気を紛らわすためであった。

減薬は、母に猛反対された。精神病者が薬を止めるというのは、下手したらキチガイになる、ということでもある.わがままだろうか。でも、このまま悪化する一方で、これからどうするのだ。親は弱っていく・・弟の世話になるくらいならやはり死んだほうがいい。

元々わたしは思春期特有の不安定だったのではないか。病気じゃなかった。どこでもそう言われ、子ども扱いされて、あしらわれ続けた。それが薬が増えて変わったのだ。そうして悪化した。覚えている。

「病気になりたい」が「本当に病気になった」んだ幼い頃から、頭痛持ち、立ちくらみ、だるい、車酔い。病院に行けば、自律神経だと言われた。シンドイとよく母に訴えた。ほんとうは病院よりも、自分を見てほしかったような気がする。わたしはまだ17歳、まだ未成年、今から鍛えたらきっとどうにかなる。どうにかしてみせる。ただし、症状が悪くなったら、死のう、と思った。周りに迷惑かけてはいけない。けれども、わたしはやっと死ねる、これで全部終わると思っていた。

思春期の5年は一体何だったのか。大人に連れて行かれて通わされたフリースクールもカウンセリングも病院も、至って真面目に通ったつもりだった。それらでどこでも相手にされずにズタボロになった。尊厳とか人権とか、すべて踏みにじられた。

断薬中、記憶がフラッシュバックするたびに、悶絶した。主に、フリースクール、カウンセリング、病院の看護師に馬鹿にされてしまった件、など。

気を紛らわすために走ったり頭から冷水を浴びたりしていた。

わたしが苦しいのに生きてきた17年のすべてが無駄になったこの時ばかりは、憎しみに心が腐ってどうしようもないほどになった。全身に毒素が回っているのがわかるほどの怒りに震えていた。そしてこれに報いるには復讐しかないと思い詰めていた。

そりゃわたしだって悪かったろう、幼かったろう、自分でもわかっている。誰からも馬鹿にされなければならないほどの正真正銘の阿呆だったのだ。

しかし、そのことを譲歩しても、大人のしてきたことは悪すぎる。子ども相手にあまりにひどい仕打ちではないのか。子どもだからワカラナイのも仕方ないことではないか。子どもとは教えられないとわからない生き物ではないのか。本気の殺意が全身に巡った時、感情のピークに達していた。

この時、何故か、ずっと愛読してきた漫画のキャラクター・・・持て余した時間を費やし散々絵に描いてきた憧れのキャラクターの気持ちを心の底から理解した、と感じ、打ち震えた。「そうか、あのシーン、彼はこういう気持ちだったんだ!」 一瞬、地獄の世界がパーッと開かれ、燦然と輝きだした。涙が溢れて、全身の殺意がひいていった。

わたしは、彼を理解するために、生まれてきたんだ。彼の傷みを、苦悩を、理解するためだけに、わたしの今日までの人生があった。望むところである。こんな地獄も、すべて彼のためだった。いいや、違う。救われていたのか。今にして思えば、あの時、下手すれば本当にやりかねなかった。危ないところだった。

ありがとう、ありがとう。この5年、生きている他の誰よりも身近に居てくれた憧れの人が、ギリギリのところでわたしの心を守ってくれた。

わたしは何故かこの5年を納得したような気になった。

これを機に、漫画をほとんど読まなくなったのも妙な話である。

わたしがもし大人であったら、汚い真似はしない。そうだ、あんな大人が居るから−−−こんな大人だらけだから−−−世の中こんなに腐っているんだ。

わたしが生き延びたら、自然に逆らうことなく、天の道理にしたがって生きていこう、と誓った。

 

 

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家族会ー定例会  3月26日 日曜日

家族も楽しく生きよう。

場所 岡崎いきいきセンター

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バードウオチング  蹴上インクラインから水路閣

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2月28日(火)バードウオチングに行きました。谷内君がインストラクターをしてくれました。鳴き声が聞こえるたびにみんなきょろきょろしました。さすが谷内君鳴き声だけであれは何々だよとおしえてくれました。参加者全員が16種の鳥が観察出来ました。動物園裏から南禅寺の水路閣まで歩きました参加者は7名でした。

 

 

 

おー、いたよ

見つけました。

 

 

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6年間の活動を語る

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2月26日(日)ライフアートにて里城先生を囲んで親の勉強会をしました。6年間で陶芸教室に参加したメンバーの記録をもとに若者の成長のあり方について 語っていただきました。参加者は新しく参加した人も含めて15名でした(志部)

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嘆 願 書ー12年前に書いた文章を偶然見つけました。

          嘆願書

私たちは関西で活動する二十歳以上のひきこもりの子を

持つ親の会です

東大阪で二〇年間社会参加できず引きこもった若者が

両親を殺害した事件の報道に対して、私たち親の会は胸を

掻きむしられるほどの衝撃を受けました。

伊東健一君家族同様、多くの家族が長年の苦悩と葛藤で

苦しんでいます。多くの家族は社会支援も得られぬまま

孤立しています。

第二回公判で伊東健一君が裁判員の問いかけで、「両親に

報いるにはどうしますか」の質問に対して、「頑張って社会に出る」と

答えていた事に、私たちはその事に対して希望を持ちました。

私たち家族会の偽らざる気持ちは、たとえ我が子に

殺められても我が子が生き続け、再び社会に参加する事を

切に望んでいます。

裁判官の皆様方がこのような若者が沢山存在している事を

御理解の上、出来る限りの寛大なご判断を頂けますよう

嘆願いたします。(山田孝明)

                                                                                平成一七年 三月 十日

法定で[生き直したい]という彼の言葉がいまでも忘れられない。40代のひきこもりの若者が17万いると推測されている。社会は本当に若者に届く支援をし続けてきたのだろうか。この数字をみれば誰にも明らかだろう。

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