秋に泣き、冬に耐え、春には咲いてほしい。

秋に泣き、冬に耐え、春に咲く

KHJ全国ひきこもり家族会連合会の内部について、憂慮する若者から1通のFAXが届いたことで、私はFACE BOOKに意見を書いた。懇意にしていた新聞記者さんや行政機関の人から問い合わせの連絡があった。FAXに書かれたKHJ全国ひきこもり家族会連合会が「乗っ取られる」という言葉に反応したのかもしれない。本質的な活動から程遠い所にいると感じているかもしれない。これは内紛ではなく、わたしがいつも言っていることだが、支援者は変質する。組織も一握りの人に権力が集まれば変質する。民主的な活動を求めても、愚鈍な大衆が集まる人々を指導するには一部の賢い人がいればいいと思うのは大いなる奢りである。現場を知らないそんな人が施策を提案しても、苦しんでいる人には届かないだろう。

「乗っ取られる」という根拠は、ある特定の人が理事になることを指していた。このある特定の人について2点だけ述べたい。

一つは、もう十数年前のこと、奥山雅久氏がコミキャンの小西氏と京都に来た時、怒りの形相で「あいつだけは許せない」「俺の目の黒いうちは絶対に組織に出入りさせない」と言っていた。活動の中ではトラブルがつきものだから、よくあることだろう。信頼していたのが裏切られたのかもしれない。奥山氏の怒りは相当なものでした。だから奥山氏が生きていたら決して起こりえなかっただろう。

二つ目は、8年ほど前のころ、夕刊フジにオレンジの会についての記事が載った。よく読んでみると、私たちの会への中傷であることが分かった。オレンジの会に取材の無いまま、相手方の意見を取り入れて書かれていた。私は、事実とは違うので取るに足らないと思っていたが、多くの人の心配な声を聞いて、反論の文章を通信に載せた。これで収束となったが、私は反論を書きたくはなかった。それで明らかに一人の若者が傷つくことが分かっていたからだ。さらにジャーナリストとしての資質にも疑問を感じていた。

このような人は、きっと陰で「あいつは、あの人はこの組織を乗っ取ろうとしている」とささやいているものだ。他の人や自分の気に入らない家族会を攻撃しているものだ。なぜならば自分が乗っ取りたいためだろう。もしこのような言動がなされているなら、人間としての品性も問われるだろう。

FAXをくれた若者に伝えたい、「乗っ取られる」という表現は正しくないのです。

正しくは、活動がジリ貧なのは感じていましたが、KHJは本部内部では疑心暗鬼と腐敗が始まりかけていて、崩壊への道のりが始まっているのです。

地べたはう活動をと 奥山氏の魂の言葉を思い出した。

ライフアート12月号通信 掲載

 

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竹富島のコンドイビーチで黒猫と会う 石垣ツアーより

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自由を求めて土佐の山河に入る

高知から帰ってから4日後、兵庫県の藤原君から電話をもらった「高知が気に入ったので、高知に行ってみようと思う」と。

私たちはKHJ高知県やいろ鳥の会・家族会の設立13周年記念パーティーに招待を受けました。親の会で元気になった若者たちの、京都と高知の交流は年に数回していました。8月24日の深夜、町田弘樹君の運転で明石海峡大橋を渡り、高速道路を走り続けて高知市に向かいました。町田君の神戸の自宅を訪ねたのが18年前のことで、彼は48歳になっていました。今回の高知行きに参加したのは篠原たっちゃん、藤原君、ギタリストの楠木さん、そして私の5人でした。

25日は居場所「といろ」のメンバーと一緒に藁の火で生カツオの表面を焼く「藁焼き」体験を初めてしました。夕方からは家族会に参加されているお母さんの手料理を食べ、夜遅くまで呑みました。藤原君ははじめていろいろな人と出会い、そしてふれあったのでした。39歳の彼にとって貴重な体験となりました。親の会の集会で就農支援の話もありました。藤原君は就農支援の話に興味を持ち京都への帰路、しきりに高知で仕事ができないかなとつぶやいていました。

数日後、お母さんと喧嘩して家を飛び出し、京都の居場所ライフアートにやってきました。彼が書いた走り書きのメモを渡されました。

(メモの内容は次のようでした)

2018年9月2日の朝   「3万円か・・・。いたいけど、これで出て行ってくれるなら安いもんじゃ、もう帰ってこんでいいで」 これが僕を送り出した母の最期の言葉。

そうか、これで一人で生きていかなあかんな・・・もう帰らない、もう帰れない。

 

高知へ出発の日が9月8日に決まりました。ライフアートにいる一週間で、鍋でご飯の炊き方と味噌汁の作り方を覚えました。受け入れ先の安芸市の公的機関の支援もいただき、訪問して2日後には一人暮らしをするアパートも決まり、就農支援先のナス農家も見つかりました。私にとってはホッとする知らせでした。しかし、事態は急変したのでした。しきりに電話が入り「不安だ」と訴える彼の声がありました。周囲の期待が高まり、どうしたらいいのか分からなくなっていたのです。20年来彼を悩ませ続けていた強迫性障害が出たのです。強迫神経症で悩んでいる多くの人が「私は普通の人と思われるのが辛い」と言います。彼も普通の人のようにできると思われたのでしょう。言葉ではがんばりますと言っても彼の心の中には次々と不安が襲っていたのでした。

電話の向こうでは泣きながら叫ぶ声を聞き、私たちは思い切って、2日後に高知に行きました。安芸市から高知市にある居場所「といろ」に行きました。彼は安心できる仲間が欲しいと、人のつながりを求めていました。私は仲間の一人に電話して高知に来ていることを伝え、会うことにしました。藤原君は帰り道で「S君の声を聞くと安心しますね」と。S君が「いつでも電話してくれたらいいよ」と言ってくれたことに藤原君はとても喜んでいました。分かり合える仲間がいることがとても大切です。家族会の山本さんからも毎日電話をかけて頂けることになり、とても有難いことだと思いました。その夜は彼のアパートで泊まりました。「また何かあったら直ぐに飛んでくるからね」と。私は次の日には高速バスに乗って京都にむかいました。

もう帰らない。もう帰れない。という彼のメモを思い出し、今後の事を考えました。

 

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2018年9月2日の「メモ」ーー39歳 旅たちの朝

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藁焼きでカツオのたたきを作りました。

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8050問題と高齢者虐待

8050問題と高齢者虐待

社会福祉士 本村あけみ

平成18年4月から私は高齢者福祉の分野で仕事をしています。訪問したご家庭でたくさんの高齢者虐待の対応をしてきました。

高齢者虐待で一番多い事例は身体的虐待で,また二番目は経済的虐待または心理的虐待になります。8050問題はわたしにとっては「高齢者虐待」だと考えています。言葉を変えれば50歳を過ぎた子供が高齢化した親を虐待することです。

「ひきこもり」問題に関連した高齢者虐待の事例を紹介させて頂きます。

平成22年の夏,マンションの管理人からの相談でした。夜中に大きな音がする,ドンドンと物を落とすような音がする。母親と長男の世帯で虐待の可能性があるとの通報だった。私が勤務する高齢者支援センターは夜中の対応をしていなかったため,再度,夜中に大きな物音がしたら警察に通報するようにとお願いしました。

通報があったその夜,深夜0時過ぎに警察への通報がありました。

(事前に警察へは通報があればすぐに保護に行くように連絡済み)

被虐待者(虐待をされた人・母親)を警察で一晩保護し,翌朝,高齢者支援センター職員と一緒に警察に被虐待者を迎えに行きました。

このときの被虐待者の年齢は65歳(高齢者虐待の対象者は65歳以上の方。2ヶ月程前に65歳になった方でした)

お会いすると年齢よりも遙かに老けて見受けられました。かなりのおばあさんに見え,歩行もできないくらいに弱っていました。腰椎圧迫骨折をしていたからでした。

顔は殴られたような痣があり紫に腫れあがっており身体的虐待は明らかでした。

母親を保護施設に保護したあと,長男との面会を行いました。そのときの長男からの発言を忘れることはありません。

僕はあんな学校には行きたくなかった」と言ったのでした。

 

この家庭は四人家族でした。父・母・姉・長男(虐待者)。

父は会社員のあとに自営業(不動産業)母は専業主婦,長女・長男の平凡な家庭だったと思われました。しかし,母親は教育熱心だったのだろうか、市郊外の自宅を処分して子どもの有名私立学校入学のためにか市内に転居したのでした。

長女も長男も有名私立中学校・高校を卒業しています。長女は大学に進学したが長男は大学に進学せずに県外で就職していていました。

長男の就職先は出版会社でしたが長続きしませんでした。そして離職後、実家で両親と生活するようになったのです。

虐待が起こしたその年の春に父は他界しました。このころから長男の暴力が始まったようです。

被虐待者が住んでいたマンションから歩いて2~3分の所に整形外科があり、そこへ母は通院していたようでした(このことは後日判明)

圧迫骨折を繰り返し,また,顔にも痣があった時には医者から「虐待」ではないか?と問われ,母は「自分で転倒した」と虐待を否定していました。

私が考えるには自分が育てた大事な子どもに虐待されていることを最後まで否定し続けたのでした。

しかし,命の危険が迫ったとき警察からの「保護します」という呼びかけに「お願いします」と母は応えたでした。

母は「施設に保護していると言わないでください,警察が保護したと伝えてください」と言った。母が決断したときには,もう二度と息子(長男)とは会わないと決心していました。

長男は毎日,夕方から夜中にかけて缶ビール24本(1箱)呑んで、

酔っぱらっては母に暴力を奮っていたのでした。

ピアノを弾いたり,スポーツクラブへ通って水泳をしたり元気だった母が父の死後から急に衰えていく姿が嫌だったと長男は言っていました。

それだけではないだろうと思われました,「あんな学校に行きたくなかった」が本音ではないか感じました。姉と比べられることに対する嫉妬のようなことがあったのではないかと。

子どもの頃の感情を引きずって生きてきて、親子関係の立場が逆になって虐待に至る場面を見たように思いました。親が子供を暴力で支配すれば、当然後年子供から暴力的な支配を受けること必然的かもしれません。親が良かれと思ってしたことや、人生の歯車が狂ったことを修正できずに心の奥深く持ち続けたことで、ふとしたことで「虐待」が始まったのかもしれません。

私自身子育ては難しいと思っています。「ひと」として自立して生きていく力をつける・・とは?

「夢や希望」を持つこと,親が押しつけることなく子ども自身で「夢や希望」を見つけられたら最高に幸せだと思います。子どもの「夢・希望」を応援するのが親と思います。

 

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