自由を求めて土佐の山河に入る

高知から帰ってから4日後、兵庫県の藤原君から電話をもらった「高知が気に入ったので、高知に行ってみようと思う」と。

私たちはKHJ高知県やいろ鳥の会・家族会の設立13周年記念パーティーに招待を受けました。親の会で元気になった若者たちの、京都と高知の交流は年に数回していました。8月24日の深夜、町田弘樹君の運転で明石海峡大橋を渡り、高速道路を走り続けて高知市に向かいました。町田君の神戸の自宅を訪ねたのが18年前のことで、彼は48歳になっていました。今回の高知行きに参加したのは篠原たっちゃん、藤原君、ギタリストの楠木さん、そして私の5人でした。

25日は居場所「といろ」のメンバーと一緒に藁の火で生カツオの表面を焼く「藁焼き」体験を初めてしました。夕方からは家族会に参加されているお母さんの手料理を食べ、夜遅くまで呑みました。藤原君ははじめていろいろな人と出会い、そしてふれあったのでした。39歳の彼にとって貴重な体験となりました。親の会の集会で就農支援の話もありました。藤原君は就農支援の話に興味を持ち京都への帰路、しきりに高知で仕事ができないかなとつぶやいていました。

数日後、お母さんと喧嘩して家を飛び出し、京都の居場所ライフアートにやってきました。彼が書いた走り書きのメモを渡されました。

(メモの内容は次のようでした)

2018年9月2日の朝   「3万円か・・・。いたいけど、これで出て行ってくれるなら安いもんじゃ、もう帰ってこんでいいで」 これが僕を送り出した母の最期の言葉。

そうか、これで一人で生きていかなあかんな・・・もう帰らない、もう帰れない。

 

高知へ出発の日が9月8日に決まりました。ライフアートにいる一週間で、鍋でご飯の炊き方と味噌汁の作り方を覚えました。受け入れ先の安芸市の公的機関の支援もいただき、訪問して2日後には一人暮らしをするアパートも決まり、就農支援先のナス農家も見つかりました。私にとってはホッとする知らせでした。しかし、事態は急変したのでした。しきりに電話が入り「不安だ」と訴える彼の声がありました。周囲の期待が高まり、どうしたらいいのか分からなくなっていたのです。20年来彼を悩ませ続けていた強迫性障害が出たのです。強迫神経症で悩んでいる多くの人が「私は普通の人と思われるのが辛い」と言います。彼も普通の人のようにできると思われたのでしょう。言葉ではがんばりますと言っても彼の心の中には次々と不安が襲っていたのでした。

電話の向こうでは泣きながら叫ぶ声を聞き、私たちは思い切って、2日後に高知に行きました。安芸市から高知市にある居場所「といろ」に行きました。彼は安心できる仲間が欲しいと、人のつながりを求めていました。私は仲間の一人に電話して高知に来ていることを伝え、会うことにしました。藤原君は帰り道で「S君の声を聞くと安心しますね」と。S君が「いつでも電話してくれたらいいよ」と言ってくれたことに藤原君はとても喜んでいました。分かり合える仲間がいることがとても大切です。家族会の山本さんからも毎日電話をかけて頂けることになり、とても有難いことだと思いました。その夜は彼のアパートで泊まりました。「また何かあったら直ぐに飛んでくるからね」と。私は次の日には高速バスに乗って京都にむかいました。

もう帰らない。もう帰れない。という彼のメモを思い出し、今後の事を考えました。

 

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