2月10日 広島市で。

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残された二人の思いを語りたい

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ジョニーがんばる

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秋に泣き、冬に耐え、春には咲いてほしい。

秋に泣き、冬に耐え、春に咲く

KHJ全国ひきこもり家族会連合会の内部について、憂慮する若者から1通のFAXが届いたことで、私はFACE BOOKに意見を書いた。懇意にしていた新聞記者さんや行政機関の人から問い合わせの連絡があった。FAXに書かれたKHJ全国ひきこもり家族会連合会が「乗っ取られる」という言葉に反応したのかもしれない。本質的な活動から程遠い所にいると感じているかもしれない。ただこれは内紛ではなく、わたしがいつも言っていることだが、支援者は変質するのだ。組織も一握りの人に権力が集まれば変質する。民主的な活動を求めていても、愚鈍な大衆が集まる人々を指導するには一部の賢い人がいればいいと思うのは大いなる奢りである。現場を知らないそんな人が施策を提案しても、苦しんでいる人には届かないだろう。

若者の「乗っ取られる」という根拠は、ある特定の人が理事になることを指していた。このある特定の人について2点だけ述べたい。ある特定のひととはジャーナリストの池上正樹氏であることをことわっておく。

一つは、もう十数年前のこと、奥山雅久氏がコミキャンの小西氏と京都に来た時、怒りの形相で「あいつだけは許せない」「俺の目の黒いうちは絶対に組織に出入りさせない」と言っていた。活動の中ではトラブルがつきものだから、よくあることだろう。信頼していたのが裏切られたのかもしれない。ただ奥山氏の怒りは相当なものでした。だから奥山氏が生きていたら決して起こりえなかっただろう。

二つ目は、8年ほど前のころ、夕刊フジにオレンジの会についての記事が載った。よく読んでみると、私たちの会への中傷であることが分かった。オレンジの会に取材の無いまま、相手方の意見を取り入れて書かれていた。私は、事実とは違うので取るに足らないと思っていたが、多くの人の心配な声を聞いて、反論の文章を通信に載せた。これで収束となったが、私は反論を書きたくはなかった。それで明らかに一人の若者が傷つくことが分かっていたからだ。このことからジャーナリストとしての資質にも疑問を感じていた。

このような人は、きっと陰で「あいつは、あの人はこの組織を乗っ取ろうとしている」とささやいているものだ。他の人や自分の気に入らない家族会を攻撃しているものだ。なぜならば自分が乗っ取りたいためだろう。もしこのような言動がなされているなら、人間としての品性も問われるだろう。

FAXをくれた若者に伝えたい、「乗っ取られる」という表現は正しくないのです。

正しくは、活動がジリ貧なのは感じていましたが、KHJは本部内部では疑心暗鬼と腐敗が始まりかけていて、崩壊への道のりが始まっているのです。

地べたはう活動こそ大切だ、という奥山氏の魂の言葉を思い出した。

ライフアート12月号通信 掲載

 

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竹富島のコンドイビーチで黒猫と会う 石垣ツアーより

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自由を求めて土佐の山河に入る

高知から帰ってから4日後、兵庫県の藤原君から電話をもらった「高知が気に入ったので、高知に行ってみようと思う」と。

私たちはKHJ高知県やいろ鳥の会・家族会の設立13周年記念パーティーに招待を受けました。親の会で元気になった若者たちの、京都と高知の交流は年に数回していました。8月24日の深夜、町田弘樹君の運転で明石海峡大橋を渡り、高速道路を走り続けて高知市に向かいました。町田君の神戸の自宅を訪ねたのが18年前のことで、彼は48歳になっていました。今回の高知行きに参加したのは篠原たっちゃん、藤原君、ギタリストの楠木さん、そして私の5人でした。

25日は居場所「といろ」のメンバーと一緒に藁の火で生カツオの表面を焼く「藁焼き」体験を初めてしました。夕方からは家族会に参加されているお母さんの手料理を食べ、夜遅くまで呑みました。藤原君ははじめていろいろな人と出会い、そしてふれあったのでした。39歳の彼にとって貴重な体験となりました。親の会の集会で就農支援の話もありました。藤原君は就農支援の話に興味を持ち京都への帰路、しきりに高知で仕事ができないかなとつぶやいていました。

数日後、お母さんと喧嘩して家を飛び出し、京都の居場所ライフアートにやってきました。彼が書いた走り書きのメモを渡されました。

(メモの内容は次のようでした)

2018年9月2日の朝   「3万円か・・・。いたいけど、これで出て行ってくれるなら安いもんじゃ、もう帰ってこんでいいで」 これが僕を送り出した母の最期の言葉。

そうか、これで一人で生きていかなあかんな・・・もう帰らない、もう帰れない。

 

高知へ出発の日が9月8日に決まりました。ライフアートにいる一週間で、鍋でご飯の炊き方と味噌汁の作り方を覚えました。受け入れ先の安芸市の公的機関の支援もいただき、訪問して2日後には一人暮らしをするアパートも決まり、就農支援先のナス農家も見つかりました。私にとってはホッとする知らせでした。しかし、事態は急変したのでした。しきりに電話が入り「不安だ」と訴える彼の声がありました。周囲の期待が高まり、どうしたらいいのか分からなくなっていたのです。20年来彼を悩ませ続けていた強迫性障害が出たのです。強迫神経症で悩んでいる多くの人が「私は普通の人と思われるのが辛い」と言います。彼も普通の人のようにできると思われたのでしょう。言葉ではがんばりますと言っても彼の心の中には次々と不安が襲っていたのでした。

電話の向こうでは泣きながら叫ぶ声を聞き、私たちは思い切って、2日後に高知に行きました。安芸市から高知市にある居場所「といろ」に行きました。彼は安心できる仲間が欲しいと、人のつながりを求めていました。私は仲間の一人に電話して高知に来ていることを伝え、会うことにしました。藤原君は帰り道で「S君の声を聞くと安心しますね」と。S君が「いつでも電話してくれたらいいよ」と言ってくれたことに藤原君はとても喜んでいました。分かり合える仲間がいることがとても大切です。家族会の山本さんからも毎日電話をかけて頂けることになり、とても有難いことだと思いました。その夜は彼のアパートで泊まりました。「また何かあったら直ぐに飛んでくるからね」と。私は次の日には高速バスに乗って京都にむかいました。

もう帰らない。もう帰れない。という彼のメモを思い出し、今後の事を考えました。

 

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