島田君の投稿。神戸新聞

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空の声を聞きたくて

 

空の声を聞きたくて

 

内閣府が3月末に40代以上のひきこもり実数(推定)61万にと発表した。その後川崎小学生殺傷事件・練馬元事務次官殺人事件など立て続けにおきた。8050問題がマスコミにさかんに報じられた。私にもコメントなどを求めるマスコミが殺到した。加害者にあって話を聞いたわけでもないので、とてもコメントはだせないと思っていた。特に現場を持つ人間ならなお更だ。たとえば、元事務次官と子供との親子関係に誰が介入することができるのだろうか?誰もできないだろう。家族会に来ている親の苦悩を聞けば当然なことだ。テレビで現場を持たない専門家と称している人のコメントを聞けば、この人は専門家と称して生計を立てているのだろうと考えてしまう。ただ 私は現場を知らないし、また現場を持っていないので、推測でしかはなせないと断ってくれたらいいなと思う。マスコミは煽り立てることにエネルギーをそそいでいるのだ。一方でマッチポンプのポンプも用意していて、「ひきこもりの偏見の助長」につながると火消しにやっきとなる。私たちはまさにふらふらにさせられているのだ。

いま、やっと事件も風化して、忘れ去られようとする時間が経とうとしている。

私が言いたいのはそのような専門家と称している人たちに、今日のひきこもり問題が託されていることが私たちの悲劇であると。

 

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こんな飲み会20年ぶりかな。歓迎会

奈良から来てくれた。ニックネームはマイケルだ。みんなよろしくね。

ササキーも久しぶりに来たね。

 

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絶望という名の列車に乗っている。

川崎市の事件について気になったニュース記事をまとめてみます

○芸人の「爆笑問題」の太田光さんは、TBS「サンデージャポン」の中で、「この犯人の場合は、自分も死ぬわけじゃないですか。自分の命も重く見ていないというか、(中略)俺のきっかけだけど、たまたま美術館行ってピカソの絵を見た時に急に感動が戻ってきた。(中略)そこからいろんなことに感動して、いろんなものを好きになる。好きになるってことは、それに気づけた自分を好きになるってことで、それは人でも文学でも映画でも何でもいいんだけど、そういうことに心を動かされた自分って捨てたもんじゃないなって思うと、他の生きている生物や人間たちの命もやっぱり捨てたもんじゃないなってなった。」と発言された...引用元、スポニチアネックス芸能

・何かを好きになること、ライフアートでは、陶芸教室が行われていたり、トランプやオセロや将棋等々の活動をしています。そういうことをしながら、同じメンバーの人たちと雑談をしたりしています。

○NPOほっとプラス代表理事、藤田孝典さんは「類似の事件をこれ以上発生させないためにも、困っていたり、辛いことがあれば、社会は手を差し伸べるし、何かしらできることはあるというメッセージの必要性を痛感している。(中略)そのためにも、社会はあなたを大事にしているし、何かができるかもしれない。社会はあなたの命を軽視してないし、死んでほしいと思っている人間など1人もいない、という強いメッセージを発していくべきだと思う。」と書かれている。...引用元Yahoo!ニュース

・ライフアートは居場所として、ひきこもりの方々が、外に出て、居られる場所を提供しています。
・各都道府県(指定都市)に「ひきこもり地域支援センター」があります。そちらに相談されても良いと思います。

○「ひきポス」編集長の石崎森人さん、精神科医の斎藤環さんは、ひきこもりという「属性」と事件を結びつけられることの危険性を語られている。...引用元AbemaTimes

・私としても、「ひきこもり=悪」というような報道はしないようにしてほしいと思っています。

生存協同組合京都 ライフアート
TEL 090-3825-3156
075-751-7276

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さざ波のような不安

石垣島滞在18日目。
何か確かなものがあるということはなく、さざ波の様な不安だけが絶えない。宿で話した外国の人に「石垣島どう?」と聞かれたが、答えが出てこずに在り来たりなことでしか返答を埋められなかった。その人に「それだけ?」と問われたが、本当にそれだけしか出てこないことに少し戸惑った。僕の絶えない不安がさざ波のようだと言うのがいいとは思わなかった。
最初はその不安に振り回され、それに堪えていた。しかし、この不安は身体に馴染んできても捉えどころがなく、なんだか酔っ払っている気もする。多分「今」というものに酔っ払った。「今酔い」と名付ける。
引きこもっている時の環境や、思考というには怪しい妄想で自分を囲い依存・停滞していた時とはまるで違う感覚であり、差し迫る目の前のことや違う場所に繋がることは、「いい子」経歴のある自分には「不安と恐怖」が固く手を繋いでいる事を自覚させてくれた。習ったことを大事にしてしまうのは恐怖の回避と承認を得ることだったから、「自由」というものがとても動きにくく、処理できずに酔っ払うのは当然のように思う。ただその時々に反応していく「行為」の持久力のなさ。
意識下で、僕の恐怖と承認を背骨にした「いい子プログラム」に呼ばれた「べき思考」と、「自由であっていいはずだ」「自分で決めていいのだ」という思考がシーソーゲームして宿主の僕が悪酔いしたのだろう。さざ波の様な不安は、そいつらがシーソーを漕ぎながら錆びついたそれの軋みとともに、何やらザワついていた声だと思う。
「今酔い」でまだ悪酔いしているが、山田さんに付き合ってもらい慣れた酒のように慣れるといいな。
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「果ての感覚」に救われた

石垣島滞在10日目
 ただ生きていくだけの自分にはまだなり切れず方向性が不明瞭だが、出来ることを望んでいる。「ただ生きる」というシンプルさは引きこもり状態に依存していた自分にとって、とても不安だし怖い。「生きて、朽ち果てる」ことは出来るのではないかと思っていたが、その間が大きな問題なのだ。
 石垣島に滞在して10日目になった。落としどころがなく咀嚼しきれず腑に落ちないことが多い。とても濃い環境だと思っている。その中で僕は只々漠然とした不安を感じる存在になっている。さざ波の様な不安が絶えない。
今日は「黒島」へ行ってきた。なんとなく僕がイメージしていた南の島の「ゆっくりとした時間感覚」がそこにあった。引きこもっていた時の「時間停滞感覚」の質が、ネガティブからポジティブへと変換されたような時間だった。少し乱暴な表現かもしれないけれど、「ポジティブな時間停滞感覚」があったように思う。現実的に言うと、だだっ広い牧場と空、どこまでも続いているような道、そこにほとんど人が見られなかった。僕ひとりだけがフラフラと自転車を漕いでいた。そんな環境だからか、いまだに自分の存在がぼんやりで停滞している僕自身が、その環境でポジティブ変換されたのかもしれない。停滞していることが許されている様な時間だった。
何も考えずにぼーっとして回り、最後に「伊古桟橋」へ着いた。運よく誰もいなかったのでそのまま300メートル以上もある長い桟橋を歩いた時に「最高だな」と思った。そこには「果て感」があったのかもしれない。だだっ広い海に長く突き出した「果ての感覚」に救われていた。絶えないさざ波の様な不安が少しの間だけ消えていた。
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生気が流れ込んできた京都滞在一ヶ月

生気が流れ込んできた京都滞在一ヶ月

京都へ来てもうすぐひと月が経つ。色々な刺激を受け、色々な人たちに出会った。そのどれも咀嚼しきれずにボンヤリしている。今では元気になっているのか疲れてしまったのか判然としない。連日の雨のせいもあるかもしれないが、環境に少しずつ慣れてきて行動頻度が鈍ってきているようにも思う。しかしお酒を飲む機会は増えたし、一人思い悩み頭で考えることは少なくなった。人と会うことが多くなっている。

今思うのは自分が感じていた「自身の活気」というのは、自分の中だけで悩み考えている様な我にとらわれている状態だったのだということだ。それは自動思考だったり防衛反応だったり。昨夜飲んで帰ってきている途中で山田さんが「自分、元気になったな!」と言ってくれた。正直僕はあまりピンと来ていなかったが、どうやらそれは頭で考えていることではなく、外からわかる事なのかもしれない。自分が外に気を向け、それに翻弄され刺激を受けて疲れていても、身体や心が自由になっているのかもしれない。それは自分を頭で制御し、それで自分を囲ってしまう事ではない。今はそう捉えている。

自分に閉じ籠り外からの流れを遮断してしまっているのではなく、外から流れてくるものを素直に受け取り傷つき楽しむことが命の流れなのかもしれない。「自身の活気」や「生気」は外から流れてくるようである。「今」を喪失した承認欲ではなく、「今」の自然な承認欲への接続までを想像した。誰のせいにもしない、一人で苦労することまでの、まだその入り口である。

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他者を求めるシンプルな感情

他者を求めるシンプルな感情

 

今日は午後から京都東山にある蹴上(けあげ)インクラインを歩いてきた。そこは琵琶湖疏水路の途中、大きな高低差のある場所で物資を運ぶために船を台車に載せて運ぶために運転されていた傾斜鉄道で、今は水運の衰退で廃止されている。

そこを歩いている途中にふと寂しさを感じた。他者を求めるとてもシンプルな感情が湧いてしまった。こんな単純な承認回路への入り口があったのだと思いだした。これは思考的なものではなく感情らしいなと感じた。社会的な生き物である上では仕方なさを感じるし、それを一人で味わうしかないのだろうと、大事な事なのだろうと思った。環境に慣れだして心にそういう余裕が出来たということだろうか。

そして、僕の感じていた「嫌なもやもやしてきた熱さ」は抑圧やら言い訳やらなんやらに蓋をされたシンプルな感情だったのだと思う。

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京都に来て11日間が経った。    トニー(投稿者)

「眠れない」というのは、ただ眠れないというだけ。眠れないから眠れないのであって、理由は勝手に作るのかもしれない。

過去の自分がどうこうと考える時間もなく生活はやることがちゃんと有ってくれる。

京都へ来て3日目か4日目の朝に、抱えていた不安と途方もなさや環境への変化に対応するための緊張で一度ガタっと疲れが出たが、その日の昼前には予定していた哲学の道経由での銀閣寺行きを決行出来た。出来たというより、「やってしまえ」という気概が何故か湧いた。

今日でライフアートを拠点とした京都滞在が11日目を迎えて少しずつ適応に伴い前向きにさせてくれる環境であると感じている。

昨日はライフアートでの家族会に招待され、僕が親御さん達に僕の思いや考えていることを話す機会を山田さんが作ってくれた。同席していた町田弘樹さんの助けもあり、平静を保ち、あまり話が狭くならずに聞いて頂いている方々に分かりやすい言葉や内容でお話が出来たと思っている。最初から最後まで話の着地点を見失わずに話せたのは少し自信になったと共に、この環境が僕を締め付けるような他者性を持たないことも大きく影響しているのだろうと感じた。皆さんが僕の話を聞いてくれて、最後には「少し希望が持てた」というご感想もある親御さんから頂き嬉しかった。それは僕の話を通してご自分のお子さんの気持ちというか、考えている事の手触りを感じてもらった事だと思っている。僕は僕で、あまり独りよがりにならない言葉や内容を選んで発言出来ていたと思う。

家族会で自分が発言した内容に関して重要で印象的だと思ったことは、頭(思考優位)からの動機ではなく、心や体の方へ動機を移していったらどうか、とういう事だった。引きこもっていると、過去や自分へのこだわり、環境や思考パターンの固定や依存で身動きが取れなくなり、それにより「今」への感覚に接続出来なくなる。直観というか、そういうものに。そうするとその時の行動パターンはやはり過去に支配されていることになると思うので、シンプルに観て感じ行動している事への移行がとても重要になってくる。

僕は承認というものに関係ない所にそれは多く属していると感じている。ただ生きるために料理は必要で食べる行為が豊かになるし、掃除や洗濯だって出来るだけ快適に過ごせるように必要だと思う。

そして、京都は歩き観て楽しむにはとても恵まれた環境なので、心と体が元気を取り戻していると感じる。たまに山田さんが飲みに連れて行ってくれるBarの雰囲気やお気に入りの黒ビールを飲むこともそうだ。それは「今を味わう」ということになるだろうけど、「今」をそのまま観たり、それを味わうことが元気になれる第一歩かもしれない。

元気になれるというのは、現実で身体的な主体性を持つことから始まり、承認を他者から自分が求めていない状態から始まるのではないかと思っている。

昨日の午前中には山田さんと2人で大文字山へ登ってきた。その山頂で俯瞰した京都の街は広すぎて、家やその他の大きな建物が所狭しと並んでいて、その中の点の1つに僕が居たという実感も湧かないほどに全てが見渡せた。とても圧倒される光景で、どこか清々しかった。

京都の木造建築を観て圧倒さる事も、鴨川沿いを歩きその河川敷で枝垂桜とその木漏れ日を観て静かに感動するのも承認欲とは無縁で自由だ。

何となく、承認欲って頭(思考優位)が先なのだろうと後で思った。何故こんな簡単なことに気付かなかったのかと思うのだが、その渦中にいてそこで心が嫌な熱さを保っている時には例外なく気付かないものだ。

山田さんのご協力の下、心と体に動機を取り戻せる力が京都にあるのかもしれないし、やはり山田さんの力なのかもしれないし、と思っている。

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自分の脆弱性と向き合えたこと。   トニーが書いた。

自分の脆弱性と向き合えたこと

色んな勘違いやとても個人的な思いがあり、住んでいた実家から遠い京都へやってきた。すがる思いというか、自分を慣れた環境から切り離してシンプルな実感が欲しかった。あまり何も考えずに京都に来た。

今の時期は観光客でいっぱいなのは知っていたけど、それで困るというほどでもなく、全然知らない人たちだから気が楽だ。一番の敵はやはり自分であった。部屋の埃を気にしすぎ、使い慣れていないユニットバスに抵抗があり初日の夜はシャワーも浴びずに寝てしまった。

到着した初日の夜に、山田さんがそのままとあるBarへ連れていってくれた。「アフターダーク」というクラフトビールを注文して飲んだらこれがやたら旨かった。オーナーが「コーヒーのような味わいを楽しめる」という様な説明をしてくれたが、本当だった。コーヒー好きな僕にとってはその「アフターダーク」という黒ビールが、本当にビールなのか疑わしい程にいい意味で裏切られた。

話が最初に戻るが、本当に一つ固い動機はシンプルに実感が欲しかったのだと思う。それは、いまやただ京都という環境に翻弄されている虫けらの様な実感であった。というか、これが本当の僕自身なのだと知ることが出来た。今日、二日目の日中は近場の散策をした。途中まで山田さんが同行してくれて、あとは山田さんが書いてくれた簡単な地図を頼りにそれを大まかな目安として、そしてなるべく自分の行きたい方へ心がけて、それは白川沿いを歩くことになったのだが、表通りとは打って変わり人の行き来もまばらだった。

どこをどのように歩んできたかは記憶に無いが、「知恩院」に行き着く。途中、新入生らしき学生の列を見て、もっと前は新しい社会の節目のこの季節が嫌でたまらなかったことを思い出したが、今の僕はあまりそこに感じ入ることもなく、それよりは今の僕自身が途方に暮れていることを不安の中でほんの少し楽しんでいる様な、どこかそれを誇っている様な気がしていた。主体性の脆弱さを、人としての弱さを全身に感じている「まともな自分」と出会えたことが、それが今の僕の目的だったのかもしれない。いわゆる愉快とか楽しいとかではなく、華やぐ京都の街中で「脆弱さ」がうろついていた様な感じだ。

 

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